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10月11日修学旅行レポ1 沖縄縦断、南から北へ

どうもこんばんは。スイシン宮です。

最近は1週間後に迫った新人戦のため、毎日練習で撮影にいけません。日中に行けない分、バルブや流しなどで夜間撮影を極めていますが、それでも何も面白くないですね。駅でしか撮影できませんので・・・。

やっぱり遠征に出てのんびり三脚を広げて撮影したいところです。カメラもめっきり稼動しなくなってしまいました。


まぁ、今は撮影よりも弓道と勉強です。弓道はわりと中るようにはなったのでいいのですが、問題は勉学のほうが・・・。
数学が今かなりヤバイ状況になってます。正直に言えば、夏課題テスト・中間テスト・一斉テストで悲惨な結果3連発となってしまってますorz
次が期末テストですが、今この地点からほぼ学期末追試が確定してしまっているようなものなので。。。
正直やる気がわかないですよ。特にベクトルなんて何言ってるのかさっぱり。微分積分は死ぬ気で勉強しないと年末返上です。。。

とかいいつつ年末も例のイベントに行ったろとか言ってますが・・・。



それでは修学旅行レポの続きです。




朝、起床すると外はどんより曇り空。あー、今日も雨か・・・。

朝食はバイキング、それからまずは平和祈念公園へ向かいます。

s-IMG_7387.jpg

向かう途中のバス車中からゆいレールを撮影。

ゆいレールは沖縄都市モノレールが運営する、沖縄で唯一の鉄道です。
2003年に登場したゆいレールですが、これが初めての鉄道っていうわけではございません。
ゆいレールが沖縄で初めての鉄道だと思われがちですが、実は沖縄本島でも大正から昭和戦前にかけていくつかの鉄道会社が作られています。

沖縄戦直前まで、沖縄県営鉄道と沖縄軌道の2つが運行されていましたが、戦争が激しくなった1944年~1945年にかけて運行を取りやめています。
沖縄戦は戦艦からの艦砲射撃や空襲などの激しい攻撃で、地形が変わるほど激しい戦いだったそうです。
その砲撃によって鉄道施設はことごとく破壊され、戦後、アメリカ支配になった後も復活されることなく現代に至ります。

2005年、政府が普天間飛行場のキャンプ・シュワブ付近の沿岸部へ移転させる際の都市復興計画に那覇市と名護市を結ぶ鉄道を建設する計画も盛り込まれたそうですが、今はどうなっていることやら・・・。


話がかなり逸れてしまった感じもしなくもないですが、平和祈念公園へ向かいます。


平和祈念公園は沖縄本島の南にあり、沖縄戦の激戦区でもあります。

平和祈念公園の前に、沖縄戦について説明しておきましょう。Wikiに掲載されている内容を簡単に要約した書いた文ですが何故かとてつもなく長くなってますwww
お暇な方、興味ある方は読んでほしいのですが、一つ言っておきたいことは、これがすべてではありません
簡単に書き直す際に、いくらか省略させてもらっているところがあります。なのでこれが沖縄戦の全貌ではありません。そこを理解していただきたいのです。






米軍は1945年4月1日、戦力で劣る日本軍が持久戦を取るために守備兵がほとんど配置されなかった本島中西部から上陸、読谷村(よみたんそん)にある北飛行場と嘉手納町(かでなちょう)にある中飛行場を上陸したその日のうちに占領、4月5日までには中部東海岸(現うるま市)までを占領したために、沖縄本島は南北に分断されました。

4月6日、日本軍は特攻機を含む航空機による大反撃作戦を連合軍艦隊・船団に対して開始。これを菊水作戦と言います。
この作戦で海軍による菊水一号作戦では390機、陸軍による第一次航空総攻撃では130機が投入されました。さらに海軍は戦艦大和以下の第一遊撃部隊を出撃。

沖縄戦とはあまり関係ないですが、この第一遊撃部隊の出陣により坊ノ岬沖海戦が起こりました。

坊ノ岬沖海戦は特に興味のある戦いなので、全く関係ないですが書かさせていただきます(爆
戦艦大和、といったら世の少年たちの憧れですよね(謎

坊ノ岬沖海戦とは1945年4月7日に起こった、沖縄へ向かう戦艦大和とその護衛艦艇VS米軍空母艦載機による戦いのことです。
この作戦には戦艦大和を始め、矢矧・冬月・涼月・磯風・浜風・雪風・朝霜・初霜・霞の護衛艦隊が出撃していました。
日本軍の暗号による通達は、連合軍によって既に解読されていたため、日本艦隊を米軍は追跡、7日08時15分に米軍の索敵隊が戦艦大和を発見。

12時23分、第1波攻撃隊が攻撃を開始。このとき「大和」が46cm主砲三式弾により砲撃を行ったが、角度が足りず米軍機編隊の下方で炸裂している。「大和」は対空火器を装備していたが、米軍の雷撃・爆撃・銃撃の同時攻撃を阻止することは出来なかった。
米軍は第82爆撃中隊11機により「大和」へ攻撃を開始。

12時45分、駆逐艦「浜風」が被弾し航行不能。
12時46分、軽巡洋艦「矢矧」の右舷機関部に魚雷が命中、機関部員が全滅し航行不能。
12時48分、駆逐艦「浜風」爆沈。
13時08分、駆逐艦「涼月」が前部に爆弾が直撃し大破、落伍。

「大和」には爆弾2発、魚雷は推定1発が命中した。左舷の傾斜は右舷への注水で回復したが、爆弾命中により後部艦橋・後部副砲が破壊され、火災が発生している。
また、第一次空襲の直前、12時21分に機関の故障で艦隊から落伍していた駆逐艦「朝霜」より「九十度方向ヨリ敵機三十数機ヲ探知ス」と無電連絡が入った。「朝霜」は米軍飛行隊の攻撃により、魚雷2本が艦橋右舷下と機械室に命中、大爆発を起こし「朝霜」は沈没した。

13時20分から14時15分の間に第2波・第3波の攻撃隊が来襲した。
攻撃は「大和」に集中し、爆弾は艦上構造物に損害を与え、対空射撃能力が低下。魚雷はほとんどが左舷に命中したが、意図はなく「大和」が左旋回を繰り返していたため、狙いやすかったためだった。米軍はこのときの攻撃で魚雷29本の命中を主張。

13時25分、通信施設を破壊された「大和」は随伴する駆逐艦「初霜」に通信代行を依頼。
13時33分、右舷の機関室とボイラー室に注水。右舷機関の喪失と浸水のため「大和」の速度は10ノットに低下。低速のため雷撃機の格好の標的となり航行能力を削ぐため舵や船尾に攻撃が集中。
この間、13時25分に駆逐艦「霞」が直撃弾2発、至近弾1発を受け缶室に浸水、航行不能となり落伍。
また、第1波攻撃で航行不能となった「矢矧」にはさらに複数の魚雷と爆弾が命中、14時05分沈没。
「矢矧」の救助に向かった駆逐艦「磯風」も攻撃を受け、機械室が浸水。航行不能。

14時10分~17分、「ヨークタウン(CV-10)」雷撃隊の右舷へ複数の魚雷が命中。それが致命打となり「大和」の傾斜が急速に大きくなる。このとき米軍攻撃隊は合計魚雷30~35本、爆弾38発が命中したと記録している。
「大和」の沈没が避けられないことを知らされ、伊藤海軍中佐は作戦の中止を命じた。
森下参謀長によれば、伊藤中佐は「駆逐艦は大和へ横付けせよ」「大和は沖縄まで到達不能。幕僚は駆逐艦へ移乗して沖縄へ先行せよ」と命じ、「大和」と運命を共にすべく艦橋下の長官控室へ降りていったと言う。
有賀艦長は退艦を拒否し、艦に残った。

総員退去命令が出て間もない14時20分、「大和」が転覆を開始。
14時23分、完全に転覆。直後、弾薬庫の誘爆、または機関室の水蒸気爆発により大爆発を起こし沈没。
14時40分、アメリカ軍の攻撃が終了。
16時39分、第一遊撃部隊の指揮官に対し、乗員救助のうえ、佐世保へ帰投命令。

この海戦で日本軍は、戦艦「大和」、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「浜風」が撃沈。
駆逐艦「霞」も航行不能となり処分。
駆逐艦「磯風」は自力で北方へ向かったがまもなく航行不能となり、乗員救助後22時40分に駆逐艦「雪風」に処分された。
駆逐艦「朝霜」は機関故障により単独行動中に爆撃で沈没、乗員全員が戦死した。
駆逐艦「涼月」は艦首を失ったが後進で佐世保へ帰還したが、ドック内部で動けなくなった。
被害が少なかった駆逐艦「冬月」、「雪風」、「初霜」は生存者約1700名を救助し佐世保へ帰還したが、この戦いで推定3721名が戦死している。

一方米軍は日本軍の対空砲火を受け5機が撃墜、原因不明の墜落が1機、被弾損傷機の52機のうち5機が修理不能とし海上投棄、実質的損傷は12機だった。
乗員のうち、何人かは水上機や潜水艦に救助され、米軍の戦死・行方不明者は合計13名だった。

・・・

さて、話を沖縄本島に戻します(滝汗

日本軍の作戦計画では、主戦場を南部とすることになっていたため、北部にはあまり配備されていなかった。
米軍はこれに攻撃をかけた。
日本軍は八重岳などの山地で抵抗したが、4月18日、本部半島突端に達し、22日までに制圧が完了した。

日本軍の本部があった首里の部隊は米軍との交戦の末徐々に南下していった。
6月18日、アメリカ第10軍司令官(沖縄上陸軍最高指揮官)であるサイモン・バックナー中将は喜屋武半島の最前線を視察中に、野戦重砲兵第1連隊第2大隊の砲撃を受け戦死した。
これはアメリカ軍史上、最高位の階級(中将)で戦死した唯一の軍人であると同時に、将官クラスの敵軍部隊最高指揮官を戦闘行為にて討ち取った大戦果であった。
しかし、日本軍が総崩れ状態であったため、アメリカ軍が有利な状況に変化はなかった。

むしろ、この後数日はバックナー中将が殺害された地域を中心に徹底的な掃討作戦を行い、日本軍の被害が増大している。

1945年6月23日午前4時ごろ、日本第32軍司令官(沖縄守備軍最高指揮官)・牛島満中将と参謀長・長勇中将が摩文仁司令部で自決した。
これにより沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅、22日の菊水十号作戦をもって菊水作戦を終了、6月25日に沖縄本島における組織的戦闘の終了を発表した。
しかし、牛島満中将の最後の命令が「最後の一兵まで戦え」とし、降伏を許さないものだったため、実質沖縄守備軍は戦闘を続けていた。
最終的には終戦後の9月7日に嘉手納において、沖縄守備軍の降伏調印がされたため、沖縄戦は終結した。




ホントごめんなさい。坊ノ岬沖海戦で熱くなりすぎました(爆死

それでもまぁ、大体の流れはわかったと思います。坊ノ岬沖海戦だけかなり詳しく書いちゃってますが・・・。
実際沖縄戦よりも坊ノ岬沖海戦のほうが文章長いし

さて、何の話だったかな。
この激戦区に、立てられたのがこの平和祈念公園ですが・・・。






ごめんなさい、時間的問題で次記事(爆死

だってWiki見てたら止まらなくなったんですもの(書き始め19:30、現在時刻00:05)
まぁ仕方ないさwww


次へ~
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